戦没者の慰霊祭

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戦争が終わっても村葬はつづいた。昭和二十年十一月二十八日六柱、同二十一年四月二十八日七柱とあった。共和地区の太平洋戦争による戦没者は一二二人という(『更埴地方誌』)。

 昭和二十二年四月二十日に仏教会、区長会、戦友会有志は、共和小学校にあった奉安殿を光林寺の参道に移し、これを英霊殿として慰霊祭をつづけていた。同四十九年四月からは仏教会、区長会、遺族会によって慰霊祭が引き継がれている。また、玄峯院(岡田)には「精霊供養塔」があり共和村と近在の村々の戦没者がまつられている。