姫塚古墳の前方二〇〇メートル、湯ノ入山の先端にある前方後円墳で、ふもとには石川集落と水田が広がっている。更埴市の森将軍塚古墳につぐ四世紀後半の築造である。墳丘は全長九三メートル、後円部径四五メートル、高さ一〇メートル、前方部幅二六メートル、高さ五メートル。後円部は寛政十二年(一八〇〇)発掘されており、主軸上に長さ五・四~七・二メートル、幅一・八メートルの竪穴(たてあな)式石室が設けられ、側壁は割石を小口積みにし、内面に朱が塗られていたという。遺物は松代藩に提出され保管されていたが、明治四年(一八七一)布制神社に払い下げられた。現存しているものは鏡六面、琴柱形(ことじがた)石製品二点、勾玉(まがたま)四点、管玉(くだたま)(碧玉(へきぎょく)製八九玉)、臼(うす)玉三九点、小玉二五点など多数あった。鏡に異体字日月銘内行花文鏡(いたいじにちげつめいないこうかもんきょう)(径一一・七センチ)の前漢式鏡、仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)二面がある。前方部にも竪穴式石室があった。ここに葬られた首長は、大和政権の支配下に入った、強い霊力をもつ司祭者的なものであったという。姫塚古墳、川柳将軍塚古墳、塩崎の中郷(なかごう)古墳と三代つづく首長系列につながり、このあとは大型の円墳が築造される。