石川条里遺跡は、千曲川左岸の自然堤防の後背湿地(こうはいしっち)に展開している。石川条里地割りは、八世紀前半から九世紀中ごろのあいだに成立したものとされている。水田遺構が最初に発掘されたのは、昭和五十八年(一九八三)からの圃場(ほじょう)整備事業にともなう長野市教育委員会の二ッ柳字長塚地籍の発掘調査のさいである。仁和(にんな)四年(八八八)の大洪水による砂で埋没した層の下に条里地割りの跡が確認された。その後復旧した水田の地割りの基本軸は同一に設計された(『長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書』26)。