中世(一四~一六世紀)の条里遺構は、現地表面下約〇・五~〇・六メートルにあり現代と大きく変わっていない。平安砂層下の水田遺構は現地表下約一~一・五メートルにあり、砂の厚さは四〇~五〇センチメートルのところもあった。石川条里の坪境の大畔(おおあぜ)は、ほぼ東西南北の方向をさし幅一・五~二・五メートルの大規模なものであった。水田面には大小の人の足跡、耕作に使った牛のひづめ跡が残っていた。石川条里の平安水田は半折(はおり)型であった。平安水田の直下の土層からは、古墳時代中期(五世紀)から奈良時代(八世紀)まで継続して使用された大きな溝が検出された。弥生時代後期(赤い土器、鉄製農具が普及した約一七〇〇年前)と古墳時代前期(川柳将軍塚が築造された一六〇〇年前)の水田遺構が、植物の腐食した厚い泥炭層と砂に覆われた状況で検出された。畔は建築材を芯(しん)材にくぬぎ・くりなどを使った杭(くい)で補強されていた。弥生から古墳時代にかけ継続して使用されていた。弥生後期以降鉄製農具の普及で後背湿地が水田化され、灌漑(かんがい)用水路がつくられた。溝や畔から木製の鋤(すき)・鍬(くわ)や、弓、盾(たて)などの武器・武具が出土した。弥生以降水田、畑、集落はしばしば洪水に襲われ、肥沃(ひよく)な土壌を堆積したが、被害もこうむった。仁和大洪水のあとおよそ一世紀後に復旧した。長塚地籍の発掘調査で大洪水の砂層から一〇枚重ねの須恵器や、墨書(ぼくしょ)土器が出土した。ここは現在表面条里のまったくみられないところで、平安時代には塩崎・篠ノ井駅付近・二ッ柳・方田(ほうだ)の広い範囲に、一〇世紀ころまでは条里地割りが踏襲され、広がっていたことが推定された(『石川条里遺跡 7 平成五年』・『県史』①)。