坪界一〇九メートルの区画の明瞭なのは布制神社の南北線から、篠ノ井農協青果場の東の南北線まで八つ、中堰から塩崎の境まで四つの区画である。この条里の南北線と埋没条里の南北線に多少のずれがある。表面条里の消滅したところは、篠ノ井の一ノ坪から篠ノ井駅付近、作見(さくみ)など広範囲で、洪水で埋没したあと復元しなかったのである。長野自動車道建設にともない、昭和六十二年から平成八年(一九九六)にわたり、足かけ一〇年の歳月をついやして、篠ノ井西部地区の県営土地改良総合圃場(ほじょう)事業を実施した。そのため大部分の条里地割が消滅した。これに先立って市埋蔵文化財センターは、用水路、水田への水の掛け口を調査したが、休耕田や、畑、果樹園に転換した水田があって不明のところがたくさんあった。水田の掛け口は畦越しで下の水田に入れている(『県史』①)。