大宝(たいほう)元年(七〇一)の大宝律令(りつりょう)により、川柳地区は信田(のぶた)地区とともに信濃国更級郡清水郷に属した。律令制の公地公民の制がゆるめられ、私地私民の制を大幅に容認するようになり、墾田の私有を公認したので荘園が発達した。川柳地区は石川荘で、京都の仁和寺(にんなじ)領(宇多天皇が仁和四年(八八八)に創建、御室御所(おむろごしょ)とよぶ)であった。鎌倉時代になると御家人を地頭に任命した。
正和(しょうわ)五年(一三一六)二ッ柳郷に地頭として三善(みよし)康基一族がいた。さらに建武(けんむ)五年(一三三八)清水与三郎実俊が、小山田村の地頭職をあたえられている(『県史』①)。