父祖以来の信濃守護復帰を望んで、将軍足利義満に嘆願をつづけていた小笠原長秀は、応永(おうえい)六年(一三九九)斯波義将(しばよしまさ)にかわって信濃守護に任ぜられた。翌七年七月三日京をたって伊那に入り、一郡の兵八〇〇を率いて七月二十一日佐久郡の小笠原氏の大井光矩(みつのり)に会い、信濃支配について談合し、村上満信(みつのぶ)、友野(ともの)、平賀(ひらが)、海野(うんの)、望月氏ら佐久・小県の国人、諏訪上下社、井上・高梨ら高井郡の国人などに使者をつかわし協力を求めた。大文字一揆(だいもんじいっき)(犀川流域の国人の連合体)の人びとは内々評議し、小笠原は古くから現在までの敵であるとし、長秀の守護就任は歓迎しないとした。八月善光寺に入った長秀は大犯(だいぼん)三ヵ条の制札を立て政務をとった。長秀は傲慢(ごうまん)で訴願にきた国人にたいしても無礼であった。大文字一揆の人びとは窪寺に会して対応を協議し、ひとまず対面することとしし、一献の用意をし馬や太刀など贈った。
鎌倉時代の北条氏の所領や諸権限は、南北朝の内乱で、小笠原氏や国人たちに分割された。北信の公領は村上氏をはじめ国人に多くおさえられてしまった。長秀は南北朝のとき、村上ら南朝に属して領地を侵略した井上、高梨、滋野(しげの)一族、大文字一揆等の領地を削減しようと考えた。秋の収穫期の八月二十日、長秀はこれらの地へ守護使を入れ、年貢・諸役などの徴収を始めた。村上満信、佐久三家、大文字一揆などの人びとは各地で守護使を追い払ういっぽう、ひそかに国一揆を結び軍備を整えた。
九月三日村上満信が兵をあげ、千田讃岐守(せんださぬきのかみ)、飯沼、風聞、入山、雨宮、生身、麻績(おみ)ら五百余騎を率いて、屋代(やしろ)城を出て篠ノ井の岡に陣どった。佐久党一手の友野、望月ら七百余騎は上ヶ島、海野一手の海野幸義、会田、岩下ら三百余騎は山王堂、高梨一手の高梨友尊、嫡子橡原(くぬぎはら)次郎、江部(えべ)、草間、木島ら五百余騎は二ッ柳に、井上、須田、島津の一手五百余騎は千曲川の岸辺に、大文字一揆の仁科、袮津(ねつ)、春日、香坂、西牧、落合、小田切、窪寺(くぼでら)ら八百余騎は芳田ヶ崎の石川に、諏訪党、神家三百余騎は西石川に陣どった。総軍一一手三千五百余騎。
小笠原長秀はこれを聞き、京都に助けを請うか戦うか評議したが戦うことに決し、九月十日(市河文書。『大塔物語』は二十三日)兵八百余騎を率いて善光寺を発し横田城に入った。ひとまず赤沢氏の拠点、塩崎城で援軍を待つことにし、二十四日朝四ッ時、横田城を出た。これを見てまず千田讃岐守が手勢百四、五十騎、後陣六百騎で上ヶ瀬の瀬を渡って四宮で戦ったが千田は破れて退いた。ついで村上満信が戦ったが退き、海野幸義が三百騎を率い満信にかわって奮戦となったが、背後から攻められ千曲川に追い詰められた。長秀は三戦とも勝ち塩崎城に向かった。高梨、井上、須田、島津以下五百余騎がこれを攻めた。橡原次郎は、坂西長国(ばんざいながくに)に討ちとられ、高梨勢は破れて退いた。小笠原勢は塩崎城に馳(は)せ入ろうとした。これを見た大文字一揆八百余騎、海野、高梨、村上らが攻めかかったので小笠原勢は分断され、長秀は塩崎城に入ったが、坂西長国ら三百余は大塔の古要害に駆けこみ、鹿垣・塀・かさ楯(たて)・櫓(やぐら)・水堀などをこしらえて防備を固めた。しかし、袮津・仁科・諏訪氏らの軍勢に包囲され、塩崎城との連絡も断たれた。兵糧を欠き馬を殺して食べたが、ついに飢えと寒さに耐えられず、十月十七日の夜、城から撃ってでてほとんど討ち死にあるいは自害した。
長秀は大井光矩の仲裁により京都に逃げ帰った。善光寺妻戸(つまど)の時衆(じしゅう)と、十念寺(じゅうねんじ)の聖(ひじり)は、弔(とむら)いに現場に急行、遺体の後始末をし葬った。古要害は大当(おおとう)集落といわれ、現在、堀跡と思われる用水路がある。むかし横田河原の戦いのとき城(じょう)氏が一時本営を置き糧食を蓄えた要害で、方田山大当院作見寺があり、大きな塔があったと伝えている。しかし、古要害は二柳城ではないかという説、塩崎城は赤沢城ではないかという説も根強くある。