二柳城跡は方田にあり、現在二ッ柳神社の敷地になっている。城の西を笹平街道が通っている。本郭(ほんくるわ)は長さ三四メートル、幅二八メートルの削平地で、後方北から東にかけて空堀(からぼり)がある。城の南面のこかに沢は、築城のさい掘りまわしたもので、もとは南へ流れていた。築城は一四世紀とされている(『信州の山城』)。
城主二柳氏は源満仲の弟満快の子孫で、為邦の子国高が二柳次郎を名乗りその子国元、国忠、国長の三人も二柳を名乗った。国忠は二柳三郎大夫と称し、源頼朝にしたがい奥州藤原泰衡(やすひら)の追討に手柄をたてその賞として信濃国夏目村の地頭職をたまわった。国忠の次男国平が夏目将監(しょうげん)を名乗った。下石川に夏目平の小字があり、このことを裏づけている。その子孫為定が応仁(おうにん)年間(一四六七~六九)三河国に移ったと伝え、明治の小説家夏目漱石はこの子孫と称して尋ねてきたことがあるという。