布制神社 上石川 ①祭神 正殿 大倭根古彦国玖琉尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)(孝元天皇)・大毘古命(おおびこのみこと)・彦太忍信命 左殿 誉田別尊(ほんだわけのみこと) 健御名方命(たけみなかたのみこと) 右殿 大山祗命(おおやまつみのみこと) ②由緒石川上組の産土神(うぶすながみ) 口碑(こうひ)によると奈良朝以前に鎮座されたという。養老五年(七二一)の棟札(むなふだ)があったが、天和(てんな)三年(一六八三)焼失。延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で更級郡一一座の一社であるといわれている。丸山から誉田別尊、虚空蔵山から大山祗命、諏訪二神を遷座した。文化六年(一八〇九)石川布制神社と改号、明治三年(一八七〇)布制神社とした。参道が直線で山腹の神社まで上っている。その頂上に川柳将軍塚がある。
湯ノ入神社 下石川 ①祭神 健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・八坂戸売命(やさかとめのみこと) ②由緒 石川下組の産土神である。口碑によると現在地より北方七町余(七六三メートル)の、湯ノ入沢の西岸山上にあったが、降雨のさいの氾濫(はんらん)によってここに移した。もとの社地付近には古墳があるという。寛政十一年(一九七七)湯ノ入神社とした。安政三年(一八五六)再建した。
二ッ柳神社 二ッ柳 ①祭神 健御名方命 ②由緒 二ッ柳の産土神として崇敬されてきた。もと上の宮に鎮座。養和年間(一一八一~八二)横田河原の合戦のとき兵火にかかり、社殿、古文書、宝物などを焼失したのでこの地に移した。天正(てんしょう)年間(一五七三~九二)再興したが、ふたたび兵火で焼失、正徳(しょうとく)五年(一七一五)再興。
安永八年(一七七九)本殿改築、寛政五年二ッ柳神社となった。