松代藩では元和(げんな)八年(一六二二)上田から松代へ移封(いほう)以後、版籍奉還(はんせきほうかん)まで地方知行制(じかたじぎょうせい)を実施した。
約二〇〇〇人の家臣団のうち、約一三パーセントが知行取り、八七パーセントが蔵前(くらまえ)取りであった。知行取りは地頭(じとう)といった。石川、二ッ柳とも藩主の蔵入地と、地頭の知行地があった。寛文(かんぶん)元年(一六六一)石川村の地頭は一一人、二ッ柳村九人であった。石川村地頭一一人の石高は二九五石(村高は元禄十五年(一七〇二)四九五石)。二ッ柳村九人の石高は五六二石(村高は元禄十五年八六八石)。寛文六年石川村の地頭は一五人、四四一石余。所属農民は五三人、蔵納本田・新田とも七六石余、所属農民は二五人、それから一一五年後の天明元年(一七八一)には、地頭四人が消え新たに六人がなり、二人増えて一七人となり四七石増し、所属農民は八二人増して一三五人となった。蔵納は三七人増え六二人、石高はわずか六石増しただけである。
地頭は城下町に常住し、現地には所属農民のうちから蔵元(本)を置いて年貢収納などにあたらせた。年貢率は藩の規定によった。安永八年(一七七九)石川村では地頭一七人の給所に蔵元が九人いた。一つの給所を担当するもの五人、二給所二人、四給所二人であった。