松代に村役人らが召集された十月二十五日夜、松代町畳屋利兵衛方で念仏寺・伊折・久木の三ヵ村の役人が密談をかわし、①酒屋衆は金子(きんす)を多く持っているので借金を申し入れ、百姓が立ち直るまで無利子で借りる。②この金で昨年の取り延べ分、今年の上納分、今までの借財分をすべて上納する。③山中一統が団結して願いでる。④集合場所は念仏寺村の城の平とし、集合日は八幡の大頭祭の日とする、などを決めた。翌朝このことを、山中の帰村する村役人に伝えた。鬼無里(きなさ)村・日影村は不参加と答えたが他の村々は賛同した。
十一月十二日から十三日昼までに、計画どおり城の平に集合した。「酒屋衆から現金は借りうけない。分相応の金子を用立てる書付を受けとり、これを奉行所に差しだす。乱暴はしない」などと申し合わせた。午後二時、まず中条村の酒屋要右衛門、つづいて新町村下の酒屋源八、治右衛門、久保喜伝治、穂刈村の林右衛門から無心用立て書付を受けとった。午後六時赤田村の酒造屋久五郎方へ向かった。松代藩の同心三人が三水村長勝寺前でこれを見て、役所にもどってこの旨を伝えた。百姓たちは久五郎所有の薪を焚いて寒さを防いで夜を明かし、十四日明け方久五郎から書付を受けとり、犬石、柳沢を通って布施五明の布制神社南隣の酒屋宇都宮惣左衛門方にいたった。惣左衛門はおよそ六、七石を炊きだし、むすびを握って出し、書付も渡した。ついで二ッ柳中条の春日幸右衛門方へ向かった。幸右衛門は、「郡奉行名代片岡嘉金治、代官名代三輪六十郎・長岡左平太様がたが藩命により出張し拙宅を役所にしている。どんな願いでも聞くとおっしゃっている」と一揆勢を説得した。しかし、百姓はいつも役人にだまされているといい、その一部は二ッ柳を出立して赤坂の渡しにかかったが、同心が出張していて船渡しを止めた。一揆は船頭から櫂(かい)を奪い舟を漕いで渡ろうと騒ぎ立て、船頭は同心の指図で舟縄を残らず切ってしまった。そのとき地京原村の清助、久木村の嘉惣治、長井村の武七の三人が、ひとまず二ッ柳の幸右衛門宅へもどり、お役人に願いの筋を申し上げようと申しふくめて引き返した。幸右衛門宅で清助か百姓を代表して願いのおもむきを言上した。三輪は「よくわかった。もはや日暮れになった。最寄りに宿をとって休むがよい」といった。一揆勢は、篠ノ井(しののい)、御幣川(おんべがわ)、会(あい)、布施五明(ふせごみょう)の民家などへ分宿し、野宿もした。
十五日朝八時役所が開かれた。百姓を代表して武七・嘉惣治・清助がこもごも、つぎのようなお願い筋を言上した。酒造屋・揚酒屋の休業あるいは酒造半減。金納相場の引き下げ。諸運上の廃止。天明三、四年の拝借金・借金の三ヵ年取り延べ、元金の三〇ヵ年年賦返納、などである。寛保(かんぽう)大洪水のとき、幕府から松代藩に支給された一万両を一〇ヵ年賦で山中村々に貸しつけたが二割の利息を付けたので、返済できず長く村々の負担になっていることも説明した。一揆百姓は役人に願意承諾の書付を要求した。役人が一揆勢にあたえた一札はつぎのとおりであった。「山中村々一統難渋の願いのため、山中村々の酒屋や布施五明村惣左衛門方から書付をとった。二ツ柳幸右衛門方に役所をたて、昨十四日五ッ時から今日七ッ時まで大勢のものの願いをとくと書き留め、伺いの上申し付けるという書面を渡したが、それでは承知しない。願いのとおり申し付けるという書面でないと引き上げないと申すにつき、村々の願いのとおり申し付けるものである」。この文書を十五日七ッ半時、長岡佐平太・三輪六十郎・片岡嘉金治が署名し、山中村々小前御百姓宛とし、吉原・小根山・念仏寺の三ヵ村を指名して渡した。夕方一揆勢は退散した。
松代藩の取った処置は、①金納相場を引き下げ以後一〇年間町相場の一割安とする。②拝借金の取り立ては天明三、四年分は猶予する。③天明三、四年の利金を元金にくりいれ二〇ヵ年賦とする。④難渋の村々は藩主から拝借金して借金を返す、などであった。天明五年二月三日から職同心らが、地京原・伊折・念仏寺・久木など一三ヵ村を回り、二〇人を召し捕り入牢(じゅろう)させた。山中の二五ヵ寺が藩へ嘆願書を提出し、村々にあたえた三通を奉行所に返しわびをいれた。五年十一月までに出牢となり、清兵衛のみ永牢となった。清兵衛は八年入牢の後寛政四年(一七九二)十一月六日病気のため釈放されたが十八日に死亡した。遺骸は藩が駕籠(かご)を貸して家にもどった(『中条村から起きた百姓一揆』)。