上杉景勝は天正(てんしょう)十年(一五八二)、塩崎の清水戸右衛門に聖川の改修をさせた。石川から二ッ柳へ鴨川辺を流れていたのを迂回(うかい)させて塩崎へ流した。松平忠輝のとき、慶長(けいちょう)十一年(一六〇六)八月聖川が決壊し、田畑が流失した。松代城代花井吉雄が聖川に石垣を築き水害を防ぎ、聖川用水の配分を石川・二ッ柳六分、塩崎三分、長谷一分とした。元和(げんな)三年(一六一七)七月大干ばつで、石川・二ッ柳と塩崎とが水争いをおこし、平久保の某が殺される惨事となった。そこで聖川の水を塩崎ヘ一分増やすことにした。
この事件がきっかけとなり石川・二ッ柳では溜(ため)池の造成をすることを考え、赤田村の小山田の水田四〇〇刈(約一町歩)を見立て、そこへ堤を築き、藤牧から出る泉を赤田村からもらいうけ、溜池をつくろうとした。翌元和四年酒井忠勝へ願いでたが実現しなかった。元和八年真田信之が松代へ移封してきて、これが許された(『川柳小学校誌』)。同年松代藩の御普請で、石川・二ッ柳・赤田三ヵ村の溜池として小山田池が築かれた。溜池および水の代償として、石川村は関崎、はんのう田で田高八石、二ッ柳村は戸切・中沖で田高八石を赤田村へ差しだした。その後、数度松代藩による拡張改修工事がなされた。大正八年(一九一九)、昭和二十八年(一九五三)には県・郡の補助により拡張改修工事をした。昭和五十八年から六十二年にかけ県営農地防災事業として一億円の予算で護岸工事、余水吐、斜樋などの工事をした(小山田池改修記念碑)。
昭和五十四年松節(まつぶせ)に電気による揚水機場を建設し、塩崎用水に取りいれ、河越池にポンプで揚げ、また沙留池西南の中堰までひいて補給したので水不足は解消した。