当地で水車による精米がおこなわれるようになったのは寛政元年(一七八九)ころからで、同七年上石川の勝五郎が聖川の水を利用して、水車営業を始めた。それから年ごとにさかんになり、上堰の取り入れ口からまもなくのところに集中してつくられた。明治初年には一六軒になった。穂刈竹勇の水車は昭和十年(一九三五)まで、共同水車は同二十三年ころまで営業した。電気精米の始まるまで川中島平一帯の精米を引き受けるほどだったという。
水車小屋
当地で水車による精米がおこなわれるようになったのは寛政元年(一七八九)ころからで、同七年上石川の勝五郎が聖川の水を利用して、水車営業を始めた。それから年ごとにさかんになり、上堰の取り入れ口からまもなくのところに集中してつくられた。明治初年には一六軒になった。穂刈竹勇の水車は昭和十年(一九三五)まで、共同水車は同二十三年ころまで営業した。電気精米の始まるまで川中島平一帯の精米を引き受けるほどだったという。