養蚕

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その後楮にかわって桑が栽培されるようになり、養蚕がさかんになってきた。松代地方に製糸技術が入ってきたのは上野(こうずけ)国からで、明和年間(一七六四~七二)ごろであった。それまで山畑や河川の荒れ地のほか桑の作付けは禁止されていた。寛政(一七八九~一八〇一)のころから平坦部(へいたん)でも桑の作付けがなされるようになった。聖川沿いは桑の発芽が早く、川霧のため霜の害をうけず、稚蚕の桑の産地として知られた(『川柳小学校誌』)。明治十八年(一八八五)石川村の産物に、繭二〇〇貫目、生糸七貫五〇〇目、白布三二〇反、縞布五三五反、葉桑五〇四〇貫、木綿四三貫二〇〇匁と記されている(『町村誌』)。