四 災害

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 川柳地区は塩崎村をへだてて千曲川があり、千曲川の洪水被害は割りに少なかったといえよう。

 『更級郡誌』(大正三年)で川柳地区に関係した災害をみると、つぎのようであった。

 最初に出てくるのは寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月の千曲川の大洪水で、塩崎村をはじめ更級郡の平野部は大被害をうけた。石川村には流死者なく一一戸と田に浸水、二ッ柳村は男九人・女一九人行方不明、二〇戸流失した。馬二頭死亡。田浸水。

 天保(てんぽう)七年(一八三六)四月から八月にかけ雨天が多く晴天はまれであった。八月十七日午前一〇時、石川村上組の北山(間富沢)が崩壊し、水車小屋二戸を押しつぶし、器物や籾などを聖川に押しながした。下組の名主が急を報じて村民を集め、聖川に橋を渡し、器物を引きあげ泥土を排除していたところ、間富沢から約一〇〇メートル東の天神平から突如大石、泥土二〇丈ばかりが押しだし、逃げる余地もない狭いところであったので四三人が一瞬にして泥に埋まり、一人だけ助かった。松代藩は付近の村から日々四、五百人動員して死者を捜索した。延ベ一万人、石川村は延べ二〇〇〇人、助村二五ヵ村は一五四五人出動した。死体を三六人収容したが六人は不明であった。九月三日藩は米二〇俵、銭五〇貫文を死者の家に贈った。また真蔵寺・常光寺に命じて死者を弔(とむら)わせた。また供養塔を建てた。今も県道端に建っている。翌八年二月十九日午前二時ころ、石川村の北山が崩れ前年の山崩れに残った水車小屋一軒が押しつぶされ、老婆と孫二人死亡、女一人・こども一人がけがをし男三人を救助、馬一頭死亡、近くの家五軒が被害をうけた。


写真8 供養塔 天保7申年

 弘化二年(一八四五)六月二十六日には聖山を中心に大雨で、石川村では月沢(場所不明)を押しだし、人家五、六軒を埋め、変死人七人を出し、荒れ地二〇〇石ばかりに被害をうけた。松代藩では衣類、寝具、農具、食料などを支給して罹災者を救った。弘化四年三月二十四日午後一〇時ころ善光寺大地震が発生し、大被害を出したが、石川村は死人なく潰(つぶ)れ家八軒、二ッ柳も死者はなかったが、水田が流され、本田五一石余、新田三石余が免租になった。真蔵寺は倒壊を免れた。安政六年(一八五九)七月二十五日、千曲川大洪水、塩崎村で水量一丈五尺、二ッ柳、御幣川・会・小森・東福寺村などで民家数百戸に浸水、田畑の被害も甚大であった。

 明治十五年(一八八二)九月二日、塩崎村の堤防が決壊し田畑・人家浸水、二ッ柳・御幣川で浸水二〇〇戸に達した。

 平成十一年(一九九九)九月二十六日鶉石のりんご畑で地割れが見つかり、地すべりの兆候は幅約一〇〇メートル、長さ二〇〇メートルの範囲で発生していることがわかった。二十九日監視基地を設置し、土尻川砂防事務所が対策工事、市防災課が避難体制を分担した。この付近の地質は、過去に柳沢土砂流が発生したところで砂礫層と粘土が入りまじり、この粘土層内で地すべりが起きていることが分かった。ボーリングして地下から水を抜く工事をしたり七〇〇〇立方メートルの土砂を取りのぞいたので、小康状態になっている。