一 和算と俳諧

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 一七世紀初頭吉田光由の『塵劫記(じんこうき)』(一六二七)が著され、数学が大衆化された。それ以後江戸の関流・最上(さいじょう)流、京都の宮城流、大坂の宅間流などの諸派が起こった。御幣川(おんべがわ)の郷士宮本久太夫正之(まさゆき)(~一七九九)は幼少のころから京都にのぼって、宮城流の開祖宮城外記(げき)清行に入門して算学を学び、免許皆伝をうけて帰国した。上石川の穂苅吉右衛門久重(一七一八~一八〇一)は久保寺の宮城流山田荊石(けいせき)勝吉の弟子である。山田には門人が多くいた。久重は『算法明元流』『算法手鏡』『算法別秘伝』などの著書を著わした。穂刈多喜蔵の子孫宅には、別紙秘伝の巻き物や書籍がある(『増補長野県の算額』)。多喜蔵は二三歳で布制神社に算額を奉納した。宮城流和算は、宮城清行-宮本正之-藤牧美郷-北沢治正-山田荊石-穂苅久重-穂苅多喜蔵と伝えられた。鬼無里村の寺島宗伴(そうはん)は、はじめ宮城流の寺島陳玄(ちんげん)について学び、その後松代藩士町田正記について最上流を学んだ。宗伴の弟子に上石川の田中儀忠太(一八四〇~一九一一)がいる。最上流の祖会田安明から町田正記-寺島宗伴-田中儀忠太-島田徳治と伝えられた。儀忠太の筆塚が布制神社鳥居の東側に建立されている。上石川の西沢正徹(一八二五~九四)も宗伴の門弟である。

 川柳地区は俳諧もさかんであった。冬の日庵武曰(ぶえつ)は天明三年(一七八三)から天保十四年(一八四三)の人(『大日本人名辞書』)。本家(春日伊右衛門)に常世田長翠(ちょうすい)が滞在していたので、その門人となり俳諧を学んだ。三〇歳すぎに善光寺町鐘鋳川(かないがわ)端のまんじゅう屋に入り婿し宮沢氏となった。文化七年(一八一〇)長翠から「冬の日庵」の号を譲られた。五〇歳すぎに京に上り画を学び画家としても一家をなした。武曰の句は文化・文政のころの俳書にはかならず出ている。更埴地方の献額の選者もしている。のち「冬の日庵」を篠ノ井会(あい)の月国に譲った。長野の城山に天保十一年建立の武曰の「粥たくは上手もいらぬ寒かな」という句碑がある。

 川柳地区には俳句の献額が二ッ柳神社・布制神社にある。戸倉の天姥(てんば)宮本虎杖(こじょう)の追善句集『花野集』に二ッ柳の俳人が七人いる(『更埴地方誌』③下)。方田に山本富重・山本治幸、上石川に田中与徳佐衛門・西沢藤吉の句碑がある。