明治五年(一八七二)八月三日、学制が発布されると、石川村上組は明治六年三月、地蔵堂に学校を設立したいと、県権令(ごんれい)立木兼善に提出した。二ッ柳村は一村で一校設立の力がなかったので、六年八月七日塩崎村の平久保(へくぼ)・篠ノ井と組み合い、二ッ柳村旧堂に開校した。ついで十二月二十日作見に一四八坪の土地を購入して、下等小学で四ヵ年の興譲学校を開校した。明治七年六月第三六番小学となった。明治十一年九月八日明治天皇北陸御巡幸のおり、興譲学校生徒は沿道に整列して奉迎した。明治十三年十二月教育令を廃して改正教育令を公布、興譲学校は更級郡第二五番小学、ついで第二七番小学となった。明治十八年三月連合戸長役場制となり、川柳・石川村は塩崎村ほか二ヵ村となり、既設の学校を廃し、一学区として一校を設立することになった。十九年四月一日更級郡第四番学区塩崎・興譲・長谷の三校を廃し塩崎小学校となり、興譲学校は二ッ柳支校となった。長谷・石川支校は廃止となった。塩崎学校ははじめ康楽寺を仮校舎としたが、十五年散畑に新築した。二ッ柳分教場は明治七年に建築され老朽がはなはだしくなり、二十七年改築した。三十四年三月学校組合を解散した。四月一日川柳尋常小学校となった。二ッ柳分教場を解体して移転し、石川と二ッ柳の境界付近に本校舎を建設した。昭和十六年(一九四一)川柳国民学校、同二十二年川柳小学校・川柳中学校となった。