二 行政区域の変遷

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 近世初期、東福寺地区には東福寺村・小森(こもり)村の二ヵ村があり、ともに松代藩領であった。東福寺村は、上組・中組・下組(現在の東区(あずまく))・上庭(じょうてい)・北小森に分かれていた。初期の村高(慶長(けいちょう)検地)一四〇〇石余は享保(きょうほう)六年(一七二一)の検地では二一八六石となり、一二〇年間に七八〇石あまりの新田開発がなされた。これにたいして小森村では慶長期の村高五〇〇石が五六〇石と同期間に約一〇パーセントの増加にとどまった。これは中世以来の村づくりが完成しており、新田開発の余地がなかったとみられる。中沢村は東福寺村の枝郷(えだごう)であったが、延宝(えんぽう)年間(一六七三~八一)、村役人をたてて独立村となった。明治に入ると、戸数四〇戸たらずの小村であり、その運営が容易でなく、明治八年(一八七五)もとの東福寺村と合併し、中沢区となった。