明治五年、戸籍法が施行されて長野県に七二の戸籍区が設けられて、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)が廃止され、人民に最初の戸籍がつくられた。世にいう「壬申(じんしん)戸籍」であり、今は非公開である。
更級(さらしな)郡八二ヵ村は八区に分かれ、小森村は第三六区、東福寺村は第三七区となった。区には戸長、副戸長が任命されたが、村は近世と同じく名主が治めた。同年十一月、戸長・副戸長を区長・副区長、名主・組頭を戸長・副戸長と改称した。同七年、区画改正により、大区・小区制が実施され、両村とも第一六大区に属し、東福寺村は第一小区、小森村は第二小区となった。同九年、筑摩県廃止のさい、大区のうえに北の一字が加えられ、東福寺村、小森村はともに北第一六大区第一小区となった。
明治十二年、大小区は廃止されて新たに郡制がしかれ、県下一〇郡は一六郡となり、更級郡役所が篠ノ井に設置された。このとき、犀川左岸にあった大豆島(まめじま)村・川合新田(かわいしんでん)村二ヵ村が上水内(かみみのち)郡へ移った。さらに、県は同十八年、数ヵ村を単位とする連合戸長役場の設置を布達した。これにともない、杵淵(きねぶち)・西寺尾・東福寺・小森の四ヵ村は一行政区となり、連合戸長役場を杵淵村に設置して、初代連合戸長には杵淵村の酒井猪治郎が就任した。