明治二十二年(一八八九)、東福寺村と小森村の合併による村名「東福寺村」は応和(おうわ)年間(九六一~九六四)ころ存在したといわれる天台宗補陀楽山(ふだらくざん)観音院東福寺に由来するという(『町村誌』)。現在、大寺があったといわれる場所には上組字「大御堂沖(おみどうおき)」があり、東福寺との関係でつけられた地名という。また、「大御堂堰(せぎ)」があり、往古の名残を用水名に残している。なお奈良時代の『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、東大寺・興福寺の封戸(ふこ)(寺領)が置かれた斗女(とめ)郷には東福寺・小森がふくまれており、この記録のうちに東福寺と記されている(『更埴地方誌』②)。これらの諸説にある大寺、東福寺名がそのまま残されて村名のもととなったのであろう。