明治期のはじめから昭和四十年(一九六五)ごろまでの戸口は微増にとどまっていた。同四十四年から上庭区における一二〇戸の市営住宅造成を機に、純農村から近郊住宅並立の地区となり、戸口も急激に増加した。住宅団地は四十八年には「犀南(さいなみ)区」として上庭区から独立し、さらに五十年には隣接して「東犀南区」も独立自治会となった。平成十一年(一九九九)には両区合わせて戸数七〇六戸、人口は一九四二人と東福寺地区の約半数を占めている。
長野オリンピック関連道路の整備にともない、南長野運動公園を中心とした農地約一〇〇ヘクタールを対象にして平成十年に土地利用研究会が結成され、今後の発展が期待されている。平成十一年現在の戸数約一三五〇戸、人口約四二〇〇人は、昭和初期に比べ戸数で三倍、人口で二倍となった(表1)。