南宮遺跡

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東福寺地域には古墳時代以前の遺跡は発見されていない。平成三年(一九九一)、市道五明西寺尾線の建設にともない「南宮(なんぐう)遺跡」の発掘がおこなわれ、同五年から八年にかけて、南長野運動公園建設にともなう五次にわたる南宮遺跡の調査が実施された。その面積は六万七〇〇〇平方メートルにおよび、そこから平安時代の一〇世紀~一一世紀後半と推定される住居跡一一二四軒、遺構として土壙(どこう)六六六、上壙墓(どこうぼ)五基、四五一条の溝跡、井戸跡二八基、棚跡、鍛冶炉(かじろ)跡などが発掘された。出土品は坏(つき)・椀(わん)などの食膳具を中心に、素焼きの土師器(はじき)、黒色土器、登り窯(がま)で焼かれた須恵器(すえき)、灰釉(かいゆう)陶器、あるいは八稜(はちりょう)鏡六面、帯飾(おびかざり)、「宗清」銘の土製印鑑、鉄製鏃(やじり)、刀子(とうす)、鎌など多種多様にわたる。平安後期のこの時期の住居跡としては、県内最大規模である。

 なかでも一辺一〇メートルをこす大型住居跡、溝をめぐらした掘立(ほったて)柱建物跡、四囲と中央に坏・高坏を据えた集落の儀式を想定させる祭祀(さいし)跡の発掘により、並みの農耕集落とは異なるこの地方の中心的集落と考えられ、当時の更級郡斗女(とめ)郷や富部御厨(とべみくりや)に大きくかかわったかなりの有力者が住んだ住居跡と推定されている(市埋文センター『所報』⑧)。


写真1 南宮遺跡(南長野運動公園、平成7年撮影) (長野市埋蔵文化財センター提供)