二 郷と荘園

180 ~ 181

 『和名抄(わみょうしょう)』によれば、古代、更級郡には信濃国最多の九郷があり、東福寺地区はそのうちの斗女(とめ)郷に属していた。斗女郷はのち、布施(ふせ)郷、富部(とべ)郷の二郷に分かれるが、律令制には五〇戸をもって一郷とすとあり、この地方の古代における人口増加が他地方よりすすんでいたことのわかる一つの論拠である。九郷のうち、斗女、池郷(いけ)、氷鉋(ひかな)の三郷は川中島平扇状地内にあり、この地は信濃国最大の人口密集地であったといえる。

 富部御厨(みくりゃ)は伊勢神宮領の荘園で、更級郡には布施・富部の御厨があり、伊勢神宮では二つの御厨をあわせて藤長御厨として登録していた(『市誌』②)。「富部御厨八所」として、戸部、原、今井、小森、東福寺、中沢、杵淵(きねぶち)、広田(ひろだ)があり(『更埴地方誌』)、東福寺地区は富部御厨に属していた。また、御厨神明社としては、西寺尾の富部岡神明神社があてられている。

 富部御厨の武士、富部三郎家俊は平正弘の甥(おい)であり、横田河原合戦で平家方に属して木曾義仲と戦って戦死、その家来の杵淵小源太重光は主人の敵を討って戦死したと『平家物語』、『源平盛衰記』にある。