東福寺跡は東福寺地区上組字大御堂沖(おみどうおき)のあたりにあり、地名はその名残という。『町村誌』によれば、応和(おうわ)年間(九六一~九六四)補陀楽山(ふだらくざん)東福寺と称し、十一面観音を本尊とし行基の作と伝えている。横田河原の合戦(治承(じしょう)五年、一一八一)のとき、兵火にかかり焼失したが、本尊はその後寛永(かんえい)年間(一六二四~四四)に僧仙岩により東区観音堂に安置されて、現在も近隣の人びとに信仰されている。大御堂沖の地名と大御堂堰(せぎ)の用水名が往時の大寺跡を伝えている。
中沢寺(ちゅうたくじ)跡は現在中沢区にある地蔵堂の地にあった。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)は地蔵堂に安置されている。開基中沢氏は諏訪氏一族で、中世中沢村に居館を構えた。子孫、中沢左京亮(さきょうのすけ)は村上義清に仕え、義清が武田氏に敗れて越後へ退却したとき滅びたという(『更級郡埴科郡人名辞書』)。