川中島合戦の古跡

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天文(てんぶん)二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)にかけて前後五回にわたって川中島を中心に甲越両軍は合戦を繰りひろげた。永禄四年九月十日の八幡原(はちまんぱら)が主戦場となった四度目の合戦がとくに名高い。隣接西寺尾の字「戦場(いくさば)」は、この戦いの跡地に残る地名である。武田の武将山本勘助が討ち死にしたのが北小森泥真木(どろまき)明神(勘助宮)付近と伝えられている。妻女山(さいじょさん)奇襲攻撃に失敗した武田別動隊は狗(いぬ)ヵ瀬・十二ヵ瀬を渡って八幡原へ向かったが、ともに千曲川に面した東福寺の浅瀬である(『甲越信戦録』)。

 この地区は、治承(じしょう)五年(一一八一)、木曾義仲と城資職(じょうすけもと)が戦った横田河原の合戦や、応永七年(一四〇〇)、新しく信濃守護に任命された小笠原長秀とこれに反旗をひるがえす国人一揆(こくじんいっき)の大文字党の戦った大塔(おおとう)の合戦にも巻きこまれるなど中世以来のたび重なる激戦地の舞台となった。合戦のあとに残されたものは村里の荒廃であり、村びとの離散した生活であった。南宮遺跡にみられる多量の炭化物・焼土の出土がこれを物語っている。