四 石造文化財

182 ~ 184

 東福寺地区には各種あわせて九〇基の石造物が、寺社、公民館、道路筋などに散在している。

 年代のわかるもので最古のものは、東福寺神社境内にある庚申塔(こうしんとう)で宝永七年(一七一〇)の銘があり、日月、二鶏、二猿と六手の青面金剛立像(しょうめんこんごうりゅうぞう)が刻まれている。つづいて中沢公民館庭の如意輪観音(にょいりんかんのん)で享保(きょうほう)九年(一七二四)の銘があり、同十六年の庚申塔が小森西の五差路にある。入母屋(いりもや)型の祠(ほこら)部には施主として小森村在住の一四人の名がある。


写真3 東福寺神社境内の庚申塔 (宝永7年)

 数で多いものは、六地蔵をふくめた地蔵菩薩像で三六基と全体の三割強である。庶民の身近な信仰として延命地蔵などを祭るのはほかの地区も同様である。庚申塔も一七基あり、年代も庚申の年であった万延元年(一八六〇)建立のものが六基を数える。つづいて道祖神七基があり、全部が自然石の文字碑で双体像はみられない。また、他地区には多くみられる馬頭観音は一基もなく、これは平坦地であるため役馬や農耕馬の事故も少なく、建立の動機も薄かったとみることができる(『長野市の石造文化財』④)。農耕馬としては、文化十四年(一八一七)に東福寺村から藩へ牡(おす)馬三匹が報告されているのみである。

 篠ノ井地方の特色として多くみられる石造物に、天満宮の文字碑が一二基あり、東福寺地区にも三基ある。これは、菅公を崇敬する村びとたちの学問に打ちこんだ情熱のあらわれである。文学碑として中沢地区伊勢宮の芭蕉句碑には「何の木の花ともしらず にほい哉(かな) はせを翁」と自然石に刻まれている(何木(なんのき)塚)。

 年代の新しいもので川中島合戦のおり、武田の武将山本勘助討ち死にの地として伝えられた北小森の勘助宮(泥真木明神)が東福寺神社へ移された跡地(南長野運動公園内)には、勘助をたたえた七言絶句(しちごんぜっく)の碑が建てられている。碑文は文学博士南條文雄のもので、大正時代当時の陸軍大学校長元帥寺内正毅(まさたけ)が川中島古戦場を視察し、記念に揮毫(きごう)したものである。