専精寺 真宗大谷派 東福寺字中組 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 海野山 ③由緒 篠ノ井塩崎の康楽寺一一世浄林の次男尊祐(そんゆう)が開山となり、埴科郡土口(どぐち)村(更埴市)に専性寺を建立、二世の代に小森に移住、専精寺(せんしょうじ)と号した。正保(しょうほう)元年(一六四四)現在地に移って藩主真田氏の帰依(きえ)をうけ、寺領三石五斗をうける。一八世映徴(えいちょう)は高徳の僧として知られ、佐久間象山、鎌原桐山(かんばらとうざん)とも親交があった。また、一茶も文化十三年(一八一六)九月、当寺を訪れている(「七番日記」)。境内に忠魂碑があり、戊辰(ぼしん)戦争から太平洋戦争までの戦死者を祭っている。
清心寺 曹洞宗 東福寺字中沢 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 皎渕(こうがく)山 ③由緒 松代西条の法泉寺末。法泉寺八世の海教が隠居寺としてこの地に一宇を建立したものが当寺である。したがって開山は海教である。たびたびの洪水にあったが難を逃れている。昭和五年(一九三〇)に成田山新勝寺より成田不動尊を勧請(かんじょう)して境内に不動堂を建てた。毎月二十七日の縁日には信仰の人びとでにぎわった。平成四年(一九九二)、火災により本堂を焼失したが同十年四月再建された。
真月寺 真言宗 小森字町裏 ①本尊 大日如来(だいにちにょらい) ②山号 龍登(りゅうとう)山 ③由緒(当山は真言宗の古刹(こさつ)であったが創建開山については不詳) 延宝三年(一六七五)に赤田村(信更町)の真言宗専照寺の広栄が再建して中興の開山となった。長いあいだ無住の寺で荒廃したこともあったが、昭和十四年に十九世隆尚(りゅうしょう)が入山して再興した。平成七年隆尚が亡くなり、現在松代東条の東光寺住職が兼務している。
観音堂 東福寺東区(あずまく)の観音堂は「おかんのんさん」と親しまれ村びとの心のよりどころである。本尊には十一面観音を安置する。縁起には、池田宮にあった樅(もみ)の古木をもってつくられ、行基作と伝えられている。平維茂(たいらのこれもち)が戸隠鬼女退治に向かうさい祈願したといわれ、本堂に「鬼女紅葉退治」の絵馬も掲げられている。弘化四年(一八四七)三月二十四日の大地震、これにつづく四月十三日の大洪水で村は大被害をうけたが、二年後の嘉永二年(一八四九)六月には観音堂も立派に再建された。これも村びとの厚い信仰心のあらわれである。その後、平成の大改修もおこなわれ、八月十日のお祭りや四月十八日の縁日には信者でにぎわっている。
十王堂 東福寺上組には、阿弥陀如来を本尊に、十王十体を安置する十王堂があり、「じょうど」と親しまれている。永禄四年(一五六一)の川中島合戦のとき、蓮香寺(川中島町原)の七世、恵等(えとう)が先達となって村びととともに上杉・武田両軍の戦死者の屍(しかばね)を一つの塚に葬(ほうむ)って墓標を建て供養して、その跡へ堂を建て、本尊を安置して供養をつづけてきたといわれている。境内には江戸時代初期といわれる念仏塔もあり、元禄十年(一六九七)の『松代藩堂宮改帳』にも「一、十王堂守有り 三間・四間」とあり、このころには堂守がいた建物があった。当時、東福寺村の四社の宮地には建物がなかったのをみても村びとの仏教信仰の念が深かったことがわかる。堂は文化年間(一八〇四~一八)に再建され、現在の堂は昭和五十四年に新築された。
このほかに東福寺地区には上庭区にも十王堂が存在した。建物が老朽化したため昭和四十二年取りこわされて、本尊阿弥陀如来・十王および三四体の仏像(秩父観音)は現在、上庭公民館に安置されており、毎年の秋分の日には区民によって「お念仏」の行事がおこなわれている。この十王堂も『松代藩堂宮改帳』に「一、十王堂守有、二間半・四間」とあり、一村に二つの堂守がいたりっぱな十王堂が建っていたことから、十王信仰のさかんな場所であったことがわかる。