東福寺地区は江尸時代を通じて、松代藩領であった。江戸幕府創設期の慶長(けいちょう)五年(一六〇〇)から七年にかけて、松城(松代)領主、森右近(うこん)忠政は川中島四郡(更級、埴科、水内、高井)を総検地した。「信州川中島四郡検地打立之帳」には総石高一九万一五二二石余と三九〇ヵ村の村名がある。戸(東)福寺村一四〇三石余と小森村五〇〇石余が更級郡の項に記されている(中沢村は東福寺村にふくまれている)。この検地は、従前より三〇パーセントも石高を増したことで過酷な「右近検地」として後世まで語りつがれていた。
慶長八年二月、家康の六男松平忠輝か松城一四万石の領主となり、大久保長安や花井吉成らの重臣が荒廃した耕地の復興や北国(ほっこく)街道の改修につとめた。とくに松代城代の花井吉成・義雄の父子は裾花(すそばな)川の瀬直しや川中島三堰の整備に力をそそいで今日の農業水利の基礎を築き、犀口(さいぐち)三堰は同十六年ごろには整備されたと伝える。
元和(げんな)二年(一六一六)忠輝か除封(じょほう)され、家康の孫、松平忠昌が一二万石で松代に入ったが一年八ヵ月で高田に移り、酒井忠勝が領主(一〇万石)となった。松代一〇万石はこのときからである。元和八年、真田信之(のぶゆき)が上田より入封して以後、明治四年(一八七一)の廃藩置県まで一〇代二五〇年間、松代藩は真田氏が支配した。