知行地

190 ~ 190

松代藩では領地を藩直轄地の蔵入れ地と家臣(地頭(じとう))に土地をあたえる地方知行(じかたちぎょう)地に分けており、ほとんどの村は蔵入れ地と知行地が混在していた。東福寺地区も同様であり、寛文(かんぶん)元年(一六六一)の「家中分限帳」によれば木村渡右衛門を筆頭に、東福寺村二九人、中沢村七人、小森村一一人、合わせて四七人の地頭がおり、その持高は一五四〇石で、当時の村高一九一〇石の約八〇パーセントにあたる。

 この知行制は信州では唯一幕末まで存続されているが、江戸中期以降は藩の「半知借上(はんちかりあげ)」策により地頭の知行石高は半減された。