江戸時代の貢租は本年貢・小役(雑税)に分けられ、土目録(どもくろく)として藩から村あてに交付され、名主は水帳(検地帳)の名寄帳によって各戸へ割りつけた。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)の「免相・本新田高付帳」によると、小森村免二ッ八分・高五〇五石八斗余・新田一〇八石五斗、東福寺村免四ッ三分・高一三二三石七斗余・新田六八四石九斗、中沢村免三ッ七分・高二五四石六斗・新田一〇二石九斗とあり(『県史近世』⑦二七六)、税率は小森村二八パーセント、東福寺村四三パーセント、中沢村は三七パーセントであった。三村とも千曲川の洪水のたびに耕地が流亡するので、明治七年(一八七四)の土目録では東福寺村・中沢村・小森村の三村合わせて高二六一四石のうち永引(えいびき)(永年年貢免除)が八八五石と村高の三三パーセントにもなっている(『町村誌』)。