村の行政は、名主・組頭・長(おさ)百姓の村方三役を置き、五人組の制度を設けて貢租・諸役の任務、犯罪の防止など相互扶助の義務を負わせた。東福寺村は「年番」と称して村役人を順番でやっていた場合が多く、また名主以外は複数のこともあった。東福寺村の天保十三年(一八四二)「村方惣連印(むらかたそうれんいん)御書上帳」によれば、全一九〇軒のうち、本百姓(頭判(かしらばん))九二軒に判下(はんした)百姓(別家・合地・帳下など)九八軒と判下百姓が過半数を占めていたが、慶応四年(一八六八)には本百姓が二四軒増えて、総数二一〇軒のうち頭判が一一六軒となった。経済力のついた別家・合地などが藩へ昇格を願って認可されたものである。
また、名主には法度(はっと)・掟(おきて)などを書いた高札場(こうさつば)を保護する役目もあった。高札場は更級郡に一〇ヵ所あり、小森村にも設置されていた。判下百姓が村の半数を上まわる東福寺村では、質素倹約をとりきめた村定めが多く残されている。享和(きょうわ)三年(一八〇三)の「村方定法(むらかたじょうほう)帳」には、村びとの借金にさいして五人組や親類の請印(うけいん)がなければ村役人は取りあげない、若者には貸してはならぬ、と貸金について規定している。また、日常生活では衣類に絹布は用いず、股引(ももひき)なども春三月四日より秋九月までは着用しない、遊び日(農休日)は五節句・盆のほか松代御祭礼一日、風祭り一日のほかはいたさない、などのとりきめをしている。