二 戊辰戦争前後の村のようすと世相

191 ~ 193

 明治維新にさいして松代藩は勤王の意思をいちはやくあらわし、新政府の要請により甲府出兵・飯山戦争につづき、越後・奥羽へ士卒千七百余人が出陣した。そのため多額の軍資金を領内へ割り当て、その調達に藩の役人は正月返上で村々を回った。そのようすを東福寺村の郷士荒川九郎が私日記(県立歴史館蔵、『市誌研究ながの』⑤所載)に書いている。社会的な記事と村に関連あるものを抜粋して当時の世相をみてみる。

 慶応三年(一八六七)

四月二十二日 松代牢屋より出火、盗賊一二人が山中へ脱走、人足を出して山狩りをおこない、近郊村々は八晩にわたり夜警をなす。同じころ、上田牢、松本牢も焼失した。

六月十一日 殿様(一〇代幸民(ゆきもと))江戸城西の丸大手番を仰せつかり、莫大(ばくだい)な金子入用となり、東福寺村へ翌日までに一四〇両、二十三日に一四〇両、七月五日まで一四〇両、合わせて四二〇両を利分一割六分にて暮れまでの借用申し入れあり。

九月十一日 殿様よりの御無心(借金申し込み)あり、勘定方役人二人来り、役元にて会合、四〇〇両を高割(石高)にて割り付けることに決まる。

 十二月二十八日 藩では借入金の催促に代官が来て役元に泊る。三十日は小森村に泊る。金づまりで一切できず。

 藩主幸民の江戸城勤務から慶応三年の暮れにかけて財政的に逼迫(ひっぱく)した藩の勘定方役人は、年末から正月返上で村々を回って金策に苦慮した。慶応四年正月三日からの鳥羽・伏見の戦いは薩長軍の勝利で、大政は京都朝廷を中心とした新政府に移った。将軍慶喜(よしのぶ)は大坂城を脱出、海路江戸城へ帰還した(戊辰(ぼしん)戦争の始まり)。松代藩は信濃諸藩に先がけて勤王派となり、同年三月には甲府城の守衛のため約八〇〇人が出兵した。

慶応四年(九月より明治元年、一八六八)

正月朔日 松代は松飾り、年始もなく、御用金催促に出役の代官、手代の勘定衆は、いまだお帰りなし。

正月七日 新政府は徳川慶喜に追討令を公布する。若年寄兼外国奉行の須坂藩主堀直虎は慶喜に抗戦をうったえ、江戸城中で自刃。

四月十八日 会津勢、飯山へ入る。松代町より大銃引と申し人足一〇〇人当たる。

四月二十五日 当国飯山の戦い。松代藩出馬。放火もおこり九〇〇棟焼失。当村からも火のあかり見ゆ。

五月五日 越後与板(よいた)(柏崎市)・長岡(長岡市)の戦い。当月三日の戦にて松代藩前島某(前島民部左衛門)戦死(北越戦争)。

七月二十九日 当月二十四日、会津勢長岡へ反撃し、大戦となる。当村新兵衛の子、水沢組(杵淵村)海沼の子ら戦死、伊左衛門の子けがを負う。おじけづいて当村よりの人足二人も逃げ帰る。

(九月八日、慶応を明治と改元。九月二十三日、会津若松城降伏。翌明治二年(一八六九)五月十八日、箱館戦争終結して戊辰戦争終わる)。

 戊辰戦争における松代藩の戦死者は五二人(士卒四二人・軍夫一〇人)、東福寺地区でも三人が戦死した。専精寺庭の忠魂碑に氏名が刻まれ祭られている。松代藩では、明治二年妻女山に松代招魂社を建立して戦死者を祭った。その後、日清・日露から太平洋戦争までの戦死者九百余柱を合祀して、毎年九月に慰霊祭をおこなっている。政府も明治二年六月、東京九段に招魂社を創立、戊辰戦争の戦死者を祭った(のちの靖国神社)。


写真9 戊辰戦争の戦死者を祭る松代招魂社 (妻女山)