三 松代騒動(午札騒動)

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 戊辰(ぼしん)戦争に多額の軍資金を消費して財政的に行きづまった松代藩は、藩札(はんさつ)として済急手形や商法社札(俗に午札(うまさつ)といわれた)を大量に発行した。政府はこれらの手形の回収を松代藩に命じ、藩は年貢収納のさいに回収をはかり、政府発行の太政官札(だじょうかんさつ)と藩札の等価通用、金納相場金一〇両に籾三俵半を布告した。しかし、政府は等価通用を許さず二割五分引き、相場は多少安く四俵半とするよう指示し、再布告させた。この処置により、正金(旧幕府発行の金銀銭貨)を有する上層民はともかく、とくに藩札を多量につかまされていた中下層民は増税を押しつけられるかっこうとなるとともに所持する藩札の価値が下落して騒然となった。さらに明治二年(一八六九)の大凶作、期待した明治政府への失望も加わり、「世直し」「世ならし」を唱えた民衆は松代城下や善光寺町をおそった。

 明治三年十一月二十五日夕刻五ッ時(午後八時ごろ)、上山田村(上山田町)に集結した一揆勢三〇〇〇人は二手に分かれて、一隊は商法社頭取の大谷幸蔵宅(羽尾村)を焼きはらって、篠ノ井・小森・東福寺を通過、赤坂の渡し場を越えて岩野村(松代町岩野)で別隊と合流、松代城下に入って産物会所や藩札発行の役人宅を焼き打ちした。東福寺村からも文作・惣太郎ら七人の若者が参加した。二十六日昼時、藩知事真田幸民(ゆきもと)は一揆勢とあって、等価通用、金一〇両に籾七俵などの要求を受けいれたのでいちおう騒ぎはおさまった。しかし同日、こんどは別の一揆勢が押しだし、善光寺町や在村豪農商をおそった。川中島平の村々は自警団を組織して一揆勢の村々への乱入を防いだが、小競り合いは方々に起きた。善光寺町では焼き打ち・打ちこわしが七七軒にのぼった。同夜、善光寺町から反転してふたたび松代町に乱入して藩士邸・商家六〇戸余を焼き打ちし、多数の類焼家屋を出した。一揆勢は城門まで迫ったが武装藩士の出動によって鎮圧されて、騒動は二十七日にようやく収まった。

 藩主幸民の一揆勢との約束は政府によって否認された。十二月から翌年正月にかけて検索拘引がおこなわれ、検挙者は六百余人となった。うち入牢(じゅろう)者四百人余となり、裁判により首謀者とされた上山田村甚右衛門(二九歳)の斬罪をはじめ、十余人は徒刑(懲役)に処せられた。東福寺村の七人は村預かりとなって調べのうえ、釈放された(『北信郷土叢書』巻四)。