一 千曲川の瀬直しと耕地の流亡

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 享保(きょうほう)六年(一七二一)の検地により、東福寺村は二一八六石となり、一二〇年のあいだに村高は五六パーセント増加した。この新田開発も軌道に乗ったとき、突然の事態が発生した。寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月二十八日からの豪雨によって千曲川は未曾有(みぞう)の大洪水となった。「戌(いぬ)の満水(まんすい)」といわれるこの水害は、千曲川を外堀として利用していた松代城でも二の丸御殿が床上六尺(約一・八メートル)の浸水となって、五代藩主信安(のぶやす)は船で西条の開善寺へ緊急避難したほどであった。これを機に、城はもちろん、城下町を将来にわたって水害から守るため、千曲川瀬直しの計画が立てられた。工事は、延享(えんきょう)四年(一七四七)から始められ、東福寺・中沢両村の村境上流一七〇間(約三〇九メートル)の湾曲部をそのまま直流させ、川幅一四間(約二五メートル)、長さ三四一間(約六二〇メートル)の堀川を掘削し、千曲川本流を分流させる大工事である。両村は村を分断して、高一三石余(面積一町六反、一・六ヘクタール)の耕地を河川敷とした。その後文化五年(一八〇八)には本流を堰(せ)きとめ、堀川を本流とした。一四間の川幅は三倍の四四間(約八〇メートル)に広がり、両側の石砂原をふくめると七七間(約一四〇メートル)と現在の川幅とほとんど変わらない本流となった。この工事は護岸工事のない素掘りの工法であるため、下流の西寺尾村・小島田村も同様に、川欠(かわかけ)、耕地の流亡に苦しめられた。

 流亡した耕地を東福寺村の「土目録」でみると、宝暦(ほうれき)八年(一七五八)の永引き・川欠高は「五拾八石四斗四升三合」であったが、同十二年には、「六百四拾五石七斗七升二合 前々川欠午改永引」となった。四ヵ年のあいだに川欠高は一一倍に激増した。この面積は、八〇町歩(約八〇ヘクタール、下畑・石盛八斗で算出)ほどになる。これによって、堀川が千曲川の本瀬になるのは、宝暦十年から同十一年にかけてと推察される。この川欠高は一〇〇年の長きにわたってあまり変わらず明治初年までつづいた。「右近検地」以来、村人の労苦によって開発された新田開発高七八〇石(享保年間)は、瀬直し工事に起因する川欠高により帳消しとなった。年貢率「免二ッ(二〇パーセント)」の百姓に有利な低率耕地の新田はわずか一三〇石余が残るのみである。


写真10 松代城下図(松代藩初期) 千曲川が外堀を兼ねている (『更埴地方誌』③所収)