古川敷をめぐる村争い

197 ~ 197

千曲川瀬直しによって本流の一部には耕作可能な土砂が堆積した。耕地のほしい農民にとって格好な新田開発地となり、ここに境を接する東福寺村・中沢村・清野村三ヵ村の論争地となった。藩は宝暦十三年郡(こおり)奉行配下の入(いり)弥左衛門・三輪六十郎を派遣して、現地を測量してこれを藩御用地とした。論所面積三町七反余(約三・七ヘクタール)のうち、二町六反を清野村へ預け、一町一反を東福寺村と中沢村へ預けることで和談となった。同年三月、三ヵ村役人連印の絵図面が作成され、現存している。東福寺村・中沢村は預かり地を二二筆に分けて二〇人の高請新田とした。

 この論争の一八年後、こんどは下流川敷をめぐって東隣の杵淵村・西寺尾村と地境争いが生じた。東福寺・中沢・杵淵・西寺尾の四ヵ村とも瀬直しの結果村が分断されて、堀川右岸に村持地所が残ったことからきている。天明元年(一七八一)に、この論争も和談した。

 千曲川の本瀬つけ替えという大事業は、戌の満水が端緒(たんしょ)となり、その後の水災難がいちじるしく減った松代城下の人びとには歓迎されたが、村を分断された下流の村々は工事による負担も大きく、耕地を失い、出水のたびに増える川欠や境界争いに長いあいだ苦しむことになった(『千曲川瀬直しに見る村人のくらし』)。