弘化四年三月二十四日の善光寺地震と、二〇日後の岩倉山崩落土の決壊による犀川大洪水によって川中島も再度の大きな被害をうけた。川中島平の村々から出された災害報告書である「善光寺大地震・犀川大洪水被害」には東福寺・小森・中沢三村の記載がないので、被災詳細については不明であるが、小森村の寺子屋師匠大久保董齋(とうさい)が記述した「弘化大地震見聞記」が残されている。見聞記は「大地震の巻」「犀川大洪水の巻」の二部からなり、かれは地震発生後、岩倉山崩落地へ視察におもむき、現場を五枚の略図にかき、村役人に届けている。
夜四ッ時(午後一〇時ころ)鳴動とともに大地震起こり、家屋傾き、瓦(かわら)落ち、手習い児童の机散乱し、村内家の倒れ潰れる音は破竹の如し。外に出て屋敷を見回り居家の無事を悦ぶ。北西の方見渡せば、北は善光寺四ヵ所、北山中二ヵ所、西は新町辺り、篠ノ井・稲荷山辺りと都合一三ヵ所から火の手揚がり、天を焼く勢い、白昼に異らず、振動は未だ静まらず、庭へ床をしつらえ東天の白むを今やと相待ちける……
四月十三日、二〇日間堰き止められた犀川の水は、いっきに破れて濁流となって川中島の村々をおそった。住民たちは、このことを予想して縁者を頼り、山に小屋をかけて避難し、居残ったものも決壊を知って急いで千曲川を渡り妻女(さいじょ)山に避難した。董齋もその一人である。
十四夜月の明かりに、池の藻草の浮かぶように見える村々を望見して不安な夜を明かす。水も引き始めて、若者を頼み小舟に棹(さお)さして村前に至ってみるに、昨夕方までは青々とした麦畑も、一夜にして大河に変じ、夢見し心地で我が家の無難を安堵(あんど)する。産神(うぶすなかみ)(神社)へぬかずき、水の中をひろい歩きに我が園(家)に入り見るに、家の裏、西の畑に流家の屋根四ヵ所溜(とど)まりける。家の中は板壁、戸障子押し破り、家財、諸道具押し出し、箪笥(たんす)、櫃(ひつ)の類残らず本宅の庭へ押し出し離れ離れにくだけてあり。