明治初年に学制がしかれて村々に小学校ができるまで、庶民の教育は寺子屋でなされた。東福寺地区の寺子屋師匠は小森村七人、東福寺村一二人、中沢村四人の二三人がおり(『東福寺小学校廃校記念誌』)、うち筆塚(墓型を含む)の建てられているもの二〇人である。職業別にみると農民一〇人、僧侶九人、士族四人となる。士族の師匠四人は藩に出仕した在郷士族であり、この地区の特長であり特筆すべきものである。もっとも早く開業したのは小森村の丸山良運で、明和(一七六四~七二)から天明(一七八一~八九)のころであるが、やはり最盛期は文化・文政(一八〇四~三〇)から弘化(一八四四~四八)・元治(げんじ)(一八六四~六五)ころまでである。また秋山元三は明治三年(一八七〇)に東福寺十王堂を復活、堂守のかたわら子弟に漢学・習字を教えた明治期の師匠であった。主な師匠の略歴はつぎのとおりである。
大久保董齋 寛政十二年(一八〇〇)小森村に生まれる。松代藩士山寺常山の門に入り、漢学を学び一七歳で寺子屋を開き、弘化~安政年間(一八四四~六〇)にわたって多くの子弟に教えた。佐久間象山とも交友し、著作に「滴翠吟稿(てきすいぎんこう)」などがある。また、「弘化大地震見聞記」を書き残している。筆塚「董齋楽地之碑」は安政六年(一八五九)、みずから碑文を書いて門弟が建てた。
大久保敏齋 布施五明(ふせごみょう)に生まれる。一六歳のとき、董齋の養子となり、養父なきあとの万延(一八六〇~六一)から明治十五年(一八八二)まで門弟に教え、学制後は通明学校小森支校の教師となった。
小出春郷 名は宗茂、上組の人。漢学を学び文化・文政年間(一八〇四~三〇)に多くの門弟に教えた。のち寺子屋師匠となり、俳諧も教えた鹿島桂一郎もその一人である。筆塚(天満宮)が残されている。
河野久喜 父は伊予松山藩から松代藩に招へいされ、水練・砲術を教えた。大久保董齋・佐久間象山について漢籍を学び、嘉永(一八四八~五四)から明治五年まで寺子屋を開き、百余名の子弟を教育した。
映徴空山 専精寺十八世の住職。書道・俳句に秀で、檀信徒が多く門人となる。鎌原桐山・佐久間象山と交わり、漢学を論じていた。弓術・砲術に上達し、藩士で教えを請うものが多かった。