小森村は、これより早く同二年全国二番目に設立された今里村古森沢の日新館が郷学校となり、同校の通学区となったが就学については不明である。学制発布にともない、せっかく設けた郷学校も旧学として寺子屋とともに廃止された。小森村には明治六年十二月、同村真月寺本堂を校舎として通明学校小森支校が開校された。教師として大久保儀助(敏齋)が就任し、授業生(助手)が一人いた。
東福寺村も学校世話役一二人を選出して、学校設立のため奔走した。明治六年十二月、同村専精寺を仮校舎に、校名を東福学校として開校した。中沢村は杵淵村・西寺尾村の三ヵ村連合で稽徴(けいちょう)学校を杵淵村典廐(てんきゅう)寺を仮校舎として同年十二月開校した。
下等小学校の学齢は、六歳から九歳までであったが就学率は低く、とくに女子は低調であった。不就学の理由は病気・経済的貧困が主であり、女子については当時の社会通念による教育観であった。その後各村の学校世話役の督励により、また住民意識も向上して逐次、就学率もよくなった。稽徴学校の開校当時の就学者数は、男一〇九人、女一八入であり、不就学者数は男一五人、女一一一人であった(「県庁文書」)。
このように県の厳命により、明治六年十二月までの三校併立によって始まった東福寺の学校教育も、同八年十二月中沢村の東福寺村への合併、同十一年五月小森村と東福寺村との学校組合の結成で東福学校一校となった。しかし、五年後には教室不足による校舎増築に端を発して、小森村の学校組合離脱の騒動もおきた。