敗戦と民主化

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太平洋戦争末期の昭和十九年(一九四四)秋ごろから、軍部は大本営を松代地下壕に移すべく工事を始めた(十一月着工)。東福寺地区から二キロメートルの近距離にある清野工区から響く発破の音が連日連夜地区住民をおびやかしていたが、八月十五日の終戦と同時に工事は中止され、住民は真の平和の貴さを知った。

 東福寺地区の太平洋戦争の戦死者は六九人であった。ほかに義勇軍一人、開拓団の六家族一六人と戊辰(ぼしん)戦争の三人、日清・日露戦争の六人、合わせて九五人を祭る忠魂碑が昭和二十七年五月三日に東福寺小学校校庭に建立され、のち専精寺へ移転された。

 戦後の民主化でなんといっても重要な役割をはたしたものは農地改革であった。旧東福寺村には大地主はいなかったが、昭和二十一年から二十四年にかけて地主から小作人に解放された農地は、田二四・八ヘクタール、畑一〇・一ヘクタールの計三四・九ヘクタールで、全耕地面積二七二ヘクタールの一二・八パーセントであり、他村に比べて少面積である。これは東福寺地区はもともと自作農家が多かったことを示すものである。