昭和二十五年ころから税制と教育制度の改革にともなって市町村合併の動きが強まってきた。西寺尾にも松代・篠ノ井(しののい)両町から働きかけがあり、近隣町村との合併が真剣に検討されはじめた。
昭和二十八年松代中学校が焼失した。松代町はこれを機に一町六ヵ村規模の組合立中学校の設立を考え、西寺尾村にも参加を呼びかけた。川東の地区は、自分たちの地区のすぐ南に学校ができることからただちに賛成した。篠ノ井町に隣接する川西地区は水利権のこともあるので、あくまで更級郡にとどまるべきだと態度を保留した。
昭和二十八年七月、中学生の来年度使用の教科書注文にあたって川東の住民は、松代中学校使用の教科書を注文して、松代合併への強い意思表示をした。やがて松代との合併案が議会に提出されると、これに抵抗する川西地区の議員は総退場して反対の意思表示をした。しかし議案は提案どおり可決してしまった。このために川をはさんだ東西の対立は激化し、事態は深刻になった。
この最中に村長が急死して村長選挙がおこなわれた。選挙にはもとの村長が川西から出て当選した。ところが「不在者投票の扱いに疑義あり」との申し入れがあり、村長は事態収拾のため辞任してしまった。ついで実施された選挙では疑義申し入れの代表者が当選した。川西地区はおさまらず、村会議員はじめいっさいの公職関係者が辞表を提出した。そして住民大会を開いて篠ノ井町への合併を決議した。合併促進委員会への参加も拒否した。
昭和三十年三月八日、松代・豊栄(とよさか)・寺尾・西寺尾の合併案が県へ出されると、猛烈な反対運動を展開した。住民大会を開き、小中学校の児童・生徒を欠席させて公民館で授業を開始した。
事態を重くみた地元の県会議員らがあいだに入って、村長・議長が「合併実現後も両地区の住民の意志によっては、境界線変更などの手続きをとる」という条件を出し合併案がまとまった。県も同一歩調をとったので昭和三十年四月一日、松代町・豊栄村・寺尾村・西寺尾村の合併が実現した。