合併後、川西住民は合併時の約束であった川西地区の分町を町長にせまった。町長もこれを了承したので、先に辞表を出した公職者も復帰し、事態は平穏に解決するかにみえた。
昭和三十年十一月六日、分町を審議する議会が開かれた。議会では西岸地区の住民にも「松代合併賛成者」が多いという意見が出されて、分町案はこれを可とするもの八票、否とするもの一九票で否決された。
しかし、川西地区の分町を求める動きはおさまらず、分町のうえ、篠ノ井町への帰属を求めてはげしい運動が展開された。分町派は昭和三十一年四月六日、中学生の松代中学への通学を停止して、集落内で教育を始めた。これは四月十六日通明(つうめい)中学校への委託通学ということでいちおうの解決をみた。十一月に入ると分町運動は激化して、要所要所にはそれぞれの主張を放送するスピーカーが設けられ、ポスターが貼(は)りめぐらされた。県の町村合併調整委員会が調停に乗りだし、住民投票を実施することで調停が成立した。
昭和三十二年四月八日、川西地区の住民投票が実施された。分町賛成四四五、反対二一六であった。この結果、二年四ヵ月におよぶ紛争は解決して同年八月一日、川西地区の篠ノ井町への編入合併が実現した。
篠ノ井町は昭和三十四年の塩崎(しおざき)村との合併と同時に篠ノ井市となった。