三 村名「西寺尾」の由来

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 明治二十二年(一八八九)の市制・町村制の施行による町村統合の施策によって、西寺尾村と杵淵村は合併した。新しい村名を西寺尾としたのは、西寺尾が大村であったためである(慶応(けいおう)四年(一八六八)西寺尾二二〇軒・杵淵村一〇二軒)。

 寺尾の地名の由来について、『更級郡誌』には応和(おうわ)年間(九六一~九六四)ここに東福寺という大寺があって、その下流にあたったことから名づけられたと書かれている。しかしその根拠は何もない。各地の寺尾と同じく、千曲川の氾濫原(はんらんげん)の平らな土地「たいら」が「ていら」となり、さらに「てらお」と転訛(てんか)したものであろう。杵淵という地名も千曲川沿岸の地形から名づけられたものと考えられている。

 寺尾の地名は「高白斎記(こうはくさいき)」の天文(てんぶん)十九年(一五五〇)の項に、「寺尾ノ城」とあるのが初見である。しかしもっと以前からこの地が寺尾と呼ばれていたことは、永享(えいきょう)十二年(一四四〇)の結城陣番帳(ゆうきじんばんちょう)二八番に「保科殿・寺尾殿・西条氏・同名越前守殿」とあり、享徳(きょうとく)三年(一四五四)以後の諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)に寺尾氏の名がしばしばみられることからも推察できる。寺尾氏は寺尾を本拠地に英多(あがた)荘の中条(ちゅうじょう)をも支配していたと考えられている。

 千曲川をはさんで東寺尾、西寺尾という村がいつ成立したのかもはっきりしないが、江戸時代のはじめにはすでに独立した二つの村となっている。

 杵淵については『源平盛衰記(じょうすいき)』の治承(じしょう)五年(一一八一)の横田河原の合戦のなかに、この地域の武士と思われる杵淵小源太重光(きねぶちこげんたしげみつ)(第二節三項中「杵淵氏館跡」参照)という名前が出てくるのが最初である。当時の武士は出身地を名乗っているので、平安時代末期には、この地域は杵淵と呼ばれていたと思われる。