文化六年(一八〇九)の西寺尾村の人口は八一〇人、杵淵村は四七九人であった。慶応四年(一八六八)は西寺尾付一〇一九人、杵淵村五五七人である。西寺尾村の人口は松代藩の川中島通り三十数ヵ村のなかでは小島田村につぐ人口である。明治十三年(一八八〇)には西寺尾村は一〇六一人、杵淵村は六四五人であった。
以後の変遷は表1のとおりである。戦後のベビーブーム期を除いては、戸口に大きな変化はなかった。
戸口が増加に転じたのは昭和五十年代からである。昭和四十五年(一九七〇)新都市計画法によって神明南(しんめいみなみ)から上庭裏(じょうていうら)にかけて五〇ヘクタールの耕地が市街化区域に指定された。昭和五十年に東福寺地区の上庭裏の約一五ヘクタールの土地に八〇〇戸の犀南(さいなみ)団地が完成したことをきっかけに、岡・神明(しんめい)地区の住宅化がすすみ西岸の戸口は急増した。