富部御厨岡神明神社 篠ノ井西寺尾岡 ①祭神 大日孁尊(おおひるめのみこと)(天照大神(あまてらすおおみかみ)の別称)・諏訪大神(すわのおおかみ) ②由緒 明治時代まで伊勢社富部御厨(とべみくりや)大日孁尊といわれていた。富部御厨に設けられていた伊勢社であり、近傍の一一ヵ村(杵淵・東福寺・小森・会(あい)・戸部・上布施・広田・氷鉋(ひがの)・小島田(おしまだ)・大塚・西寺尾村)の総社として尊崇されていた。
伊勢社に多くみられる長い参道(大門)があった。文政七年(一八二四)松代藩の神社境内改めがおこなわれた。そのとき西寺尾・杵淵・中沢・東福寺の四ヵ村の村役人が立ちあって作成した覚書と絵図が残っている(杵淵正久蔵)。それによると、大門敷は幅八間(約一五メートル)、長さ七一一間三尺(約一二九三メートル)であった。大樹の並木が連なり壮観であったという。太平洋戦争の末期の昭和二十年(一九四五)に切り倒されて、参道は農耕地となった。現在参道は上庭(じょうてい)線までの約三五〇メートルのあいだが道路として残っているだけであるが、その南南西に、以前の参道の幅に耕地の畦(あぜ)道が二本、市道川中島三一五号線(五明西寺尾線)をこえてつづき、往時の面影を伝えている。
社伝によると、孝元(こうげん)天皇の御代に、伊勢内宮より天照大神を勧請(かんじょう)して創建された。治承(じしょう)五年(養和元年、一一八一)の城資職(じょうすけもと)と木曾義仲の合戦時に兵火にかかり焼失し、宝治(ほうじ)二年(一二四八)に再建された。そのさい境内に神明寺(しんめいじ)を建立して、加賀の国から住職として徳裕(とくゆう)を招聘(しょうへい)した。神明寺は文明七年(一四七五)社殿が焼失したさいに廃絶した。
文禄(ぶんろく)三年(一五九四)に再建されたが、寛永十年(一六三三)雷火によってまたも焼失。明暦(めいれき)元年(一六五五)藩主より用材の寄進を得て、本殿(ほんでん)・祝詞殿(のりとでん)を再建したという。明治十一年(一八七八)に拝殿を再建している。
明治四十一年岡組にあった赤川神社の祭神、建御名方(たけみなかた)神を合祀(ごうし)して、社号を富部御厠岡神明神社と改称した。
頤気神社 松代町西寺尾 ①祭神 主神池生命(いけふのみこと) 相殿(あいどの) 建御名方命・事代主命(ことしろぬしのみこと)・猿田彦命(さるたひこのみこと) ②由緒 社伝によると雄略(ゆうりゃく)天皇三年正月宇池清水(あざいけしみず)に創建された。大同(だいどう)元年(八〇六)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって字池清水畑(はたけ)に移建された。
『日本三代実録』に、「元慶(がんぎょう)五年(八八一)十月九日甲申授(きのえさるさずく)、信濃国正六位上池生神(いけふのかみ)(中略)従五位下」とある。この池生神は、『延喜式(えんぎしき)』神明帳(じんみょうちょう)に記載されている頤気(いき)神社であるという。武門の帰衣(きえ)も厚く、木曾義仲が養和元年(一一八一)に古川沿いに移建したと伝える。また、新田義貞が本社に祈願して建武元年(一三三四)社殿を現在地に移したという。永禄(えいろく)四年(一五六一)兵火にかかって焼失、慶長(けいちょう)元年(一五九六)に造営したが寛保(かんぽう)二年(一七四二)の水害で流失。翌三年氏子が力を合わせて造営したが、文化十二年(一八一五)火災にあって焼失した。現在の社殿は文政三年(一八二〇)に造営されたものである。以前は諏訪明神と称していたが、寛政元年(一七八九)吉田家へ願いでて社号を頤気神社と改称した。天保(てんぽう)十二年(一八四一)吉田家から式内社(しきないしゃ)の認定をうけた。この両度の申請のさい、小島田村とのあいだに紛争があった(第四節三「騒動」参照)。
槌井神社 ①杵淵字水沢 ②祭神 建御名方命・八杵命(やきねのみこと) ③由緒 社伝によると、杵淵の領主であった杵淵氏が当地を開拓された八杵命の恩沢(おんたく)をたたえて、八杵命とその父君建御名方命を祭ったのが始まりという。杵淵氏の氏神であった。古くは州羽明神(すわみょうじん)といっていたという。明治十年十一月槌井(つちい)神社の社号を允許(いんきょ)された。鳥居の額字は有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の染筆(せんぴつ)(明治二十五年)といわれる。拝殿に俳句の掲額が四基あるが、摩耗が激しい。大正時代の千曲川の改修以前は境内も広く、古木も多かった。改修工事で境内が削られ古木も切り倒された。