二 寺院

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 典廐寺 曹洞宗 篠ノ井杵淵 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 松操山(しょうそうさん) ③由緒 寺伝によると、往時この地に福徳寺(現在東寺尾)の管理する瑠璃光山鶴巣寺(るりこうさんかくそうじ)跡があった。そこには川中島合戦で戦死した武田信玄の弟、典廐信繁(てんきゅうのぶしげ)を葬った塚があったという。承応(じょうおう)三年(一六五四)真田信之(のぶゆき)の五女於台(おだい)(見樹院)の命により、長国寺八世僦察(しゅうさつ)が松操山典廐寺を建立したという。本堂内に鶴巣寺時代の本尊といわれる薬師如来像がある。僦察の没年から明暦~寛文(一六五五~七三)のころのことと考えられている。真田家の武家寺であった。

 明和三年(一七六六)に没した五世元明は、松代藩主の援助をうけて寺門を再興して繁栄の基礎を築いたので中興の祖とされている。一〇世四海は万延元年(一八六〇)、真田幸貫(ゆきつら)の発願により川中島合戦の三〇〇年を記念して閻魔(えんま)堂を建立し甲越両軍の霊を弔(とむら)った。堂内に閻魔大王、三三体の観音菩薩・四天王像が祭られている。

 明治三十九年(一九〇六)に川中島合戦三五〇年祭がおこなわれ、甲越弔魂(ちょうこん)の「懐古の碑」が建立された。山門は真常院殿(しんじょういんでん)(真田幸道)の霊屋(たまや)の門を移したものといわれる。昭和四十一年川中島合戦記念館をつくった。

 西法寺 浄土真宗本願寺派 松代町西寺尾 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 相沢山(あいざわさん) ③由緒 寺伝によれば、源頼朝の家臣相沢弥五郎重光・弥三郎父子が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)真壁(まかべ)の里にいたころ、同国稲田で親鸞(しんらん)に帰依し西如(さいにょ)・西教の法号を授かった。同地に六代までいたが七代目西勝が永享(えいきょう)十年(一四三八)、本願寺参拝の帰途、西寺尾の真言宗寺尾山西法寺(さいほうじ)跡に寺を再興し、西法寺の寺名を引きついだという。

 その後、たびたび火災にあった。とくに昭和十六年八月に倉庫を全焼したさい寺宝、古文書の多くを失った。

 武田信玄との結縁(けちえん)もあり、法印御坊宛ての八朔梅二枝を贈った礼状が残されていたといわれる。荘厳な山門が残っているが、この山門は武田氏が海津城を築城したときの余材でつくったものと伝えられている。真田幸貫書の与楽園(よらくえん)の額と愛用の扇子がある。

 教覚寺 浄土真宗本願寺派 松代町西寺尾 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 青竜山(せいりゅうさん) ③由緒 寺伝によると、いつのころか西法寺の境内に一宇が建立されていた。元禄元年(一六八八)僧専了のとき、寺号を授与され教覚寺(きょうかくじ)となったという。境内に樹齢四〇〇年といわれる棗(なつめ)の古木がある。市の保存樹木である。

 浄真寺 浄土真宗本願寺派 松代町西寺尾 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 池田山 ③由緒 寺伝によると、親鸞が越後に流されていたとき、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の末子頼兼の子、池田刑部重綱(いけだぎょうぶしげつな)が聖人に深く帰依して法弟となった。浄真(じょうしん)の法名を賜り更級郡の下氷鉋地籍に一堂を建立したという。今の浄真堰の近くである。現在も檀家が稲里町付近に多いことからも、この事実がうかがえる。

 天文(てんぶん)十九年(一五五〇)寺塔を整えた功績によって、本願寺一〇世証如(しょうにょ)から寺号を授与された。永禄四年(一五六一)武田信玄の臣高坂弾正(こうさかだんじょう)から寺領一〇貫文の寄進をうけている。同年九月兵火にかかり堂宇を焼失し、一時須坂市方面に移ったという。現在地に移ったのは寛永十二年(一六三五)に没した一二世慶西のときで、慶西を中興の祖としている。