川中島合戦後は武田氏の支配下となった。武田氏が滅亡すると、信長の将森長可(ながよし)が北信濃四郡をあたえられて天正(てんしょう)十年(一五八二)三月末に海津城に入った。しかし六月六日本能寺の変がおきて長可は急ぎ西上した。かわって上杉景勝(かげかつ)が侵入してきて北信濃一帯を支配した。景勝は慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉の命で会津に国替えをすることになった。そのさい侍以下奉公人はすべて召し連れることを命じられたので、北信濃の侍はこぞって会津に移住した。そのなかに寺尾源蔵や寺尾九助の名前がある。
景勝の移封のあと、秀吉は海津城に田丸直昌(ただまさ)、飯山城に関一政を配置し、尾張犬山城主の石川光吉(いしこみつよし)とともに太閤(たいこう)蔵入地代官とした。太閤検地が終わった八月、田丸は更埴・高井内に四万石を、関は水内内に三万石をあたえられた。
慶長五年田丸・関は美濃国に移封(いほう)され、森忠政が松代一三万七五〇〇石をあたえられた。忠政は慶長七年、領内の総検地を実施した。この検地は家康の検地の制にならい六尺一分の検地竿を用いるものであった。太閤検地の六尺三寸の竿にくらべて面積を多く打ちだし、そのうえ石盛も上げたので北信濃の石高が一九万石に増大したといわれる(『県史』④)。
森検地での各村の村高を書きあげた『信濃国川中島四郡検地打立之帳』に、西寺尾村(八五〇石七斗一升一合)と杵淵村(四九五石三斗五合)がみられる。慶長八年、忠政は美作(みまさか)国津山(岡山県津山市)に移封された。
忠政のあと家康の六男松平忠輝が松代に封(ほう)ぜられた。忠輝の松代城代花井吉成(はないよしなり)は大久保長安の援助をうけて、裾花川の流路を変えたり、いまも川中島平を潤(うるお)している犀口三堰の開削(かいさく)をおこなったといわれている。
忠輝改易(かいえき)のあと松平忠昌、酒井忠勝と領主があいついでかわった。元和(げんな)八年(一六二二)真田信之(のぶゆき)が上田から移封されてきた。以後明治のはじめまで一〇代二百余年間、この地方は真田氏の支配するところとなった。