江戸時代の村高の推移は表2のようである。
慶長から元禄にかけては村高に大きな変化はない。これは正保・元禄の郷帳が森検地高をそのまま書き上げることを原則としたからである。『天保郷帳』では実高書き上げを指示されたため、西寺尾は三二パーセント、杵淵も二四パーセントの伸びを示している。天保以前の長いあいだの新田開発などが村高に組みいれられたのである。明治七年(一八七四)の西寺尾村の石高が八八〇石に減少しているのは、千曲川の瀬変わりによって、洪水の被害が多くなり川欠(かわかけ)地や荒れ地が増したためであろう。