松代藩では上級武士に知行地(ちぎょうち)をあたえる地方(じかた)知行制をとっていた(家中一九〇〇人中約二六〇人)。寛文六年(一六六六)の「杵淵村水帳(みずちょう)」によると、本田六〇四石のうち五五四石が地頭(じとう)の給所分として八人の地頭に分給されている。新田(四七石七斗余)はすべて藩の蔵入地である。天保十二年になると杵淵村には一三人、西寺尾村には一六人の地頭の知行所があった。大部分の百姓は複数の地頭の知行地を耕作している。もっとも多い百姓は一一人の地頭に所属している。知行所には地頭が任命した蔵本(くらもと)がいて年貢・小役(こやく)の収納のほか地頭賦課(ふか)の御用金、無尽金(むじんきん)なども扱っていた。蔵本は知行所所属の百姓から選任された。