農民構成

232 ~ 233

松代藩では百姓を頭判(かしらばん)百姓と判下(はんした)百姓に大別している。頭判は本百姓で判下はそれに所属する百姓である。判下百姓は別家(べっけ)・合地(あいじ)・帳下(ちょうした)・加来(からい)・地下(じげ)など一〇以上に分けられていた。杵淵村では別家・合地・帳下だけであり、西寺尾村ではそれ以外に加来・借地(しゃくち)が各一軒ずつあるだけである。

 西寺尾・杵淵両村は判下百姓の比率が高かった。慶応四年(一八六八)、川中島通りの村々では判下百姓は全体の三六パーセントであるのに、西寺尾は七六パーセント、杵淵は六四パーセントが判下百姓であった。

 判下百姓が多いといっても生活が貧しかったことにはならない。幕末になるにつれて判下百姓は経済力も地位も向上してきている。天保十二年の杵淵村の人別持高構成をみると、寛文六年に二三人だった持高所持者が八五人に増えている。同じ年の地押改帳によると、村内の蔵本一〇人のうち三人は合地百姓である(『更埴地方誌』)。

 享保(きょうほう)期(一七一六~三六)の本田の貢租率(こうそりつ)は更級郡の平均が三七・七パーセントであるのに比して、西寺尾村は四八パーセント、杵淵村四三パーセントである。西寺尾・杵淵両村は土地の生産力が高いため、貢租率は更級郡では高い地域であった。