村の生活は水との戦いであった。千曲川の洪水は村人の生命財産をつねにおびやかしていた。左岸の篠ノ井西寺尾・杵淵の地域は、右岸の松代西寺尾地区より千曲川の洪水の被害は少なかった。しかし、用水路(下堰)の末流であるために、用水の確保と悪水(あくすい)(用水のあまり水)の排水に苦しめられていた。
用水の末流にある村には、田植えの時期になっても水はなかなか届かない。七月になっても田植えが始まらなかった。「堰守(せぎもり)してる時ゃあ苦労したもんだ。田植えが始まれば家の仕事なんかしちゃいられない。朝から晩まで水のことで頭がいっぱい。少しでも水位が下がると、やんやと言われ、急いで上流に行ってみれば、戸部(とべ)堰にたてを入れられ、橋の下には間知石(けんちいし)を投げ入れられているありさま。全く○○○村の…」「水をいれる順番はきちんと決まっている。それを都合で早く入れる時は、夜中か早朝、人目を盗んでしたもんだ。そんなときは鎌(かま)や鍬(くわ)を振り上げての口論・喧嘩はあたりまえ…」(『北沖圃場(ほじょう)竣工記念誌』)。
これは昭和のはじめのようすを語った古老の言である。昭和になっても用水確保の苦労はたいへんなものだった。まして江戸時代の百姓にとって水の確保は本当に死活の問題だった。
杵淵の北村に洪水にそなえた巨大な井戸をもつ家がある。屋敷地は周囲の家より六〇センチメートルぐらい高く土盛りがしてある。その上に三メートル四方に六五センチメートルも間知石を積みあげ、中央に一メートル四方の井戸がある。井戸側は柴石(しばいし)で四五センチメートル積みあげている。したがって井戸は、まわりの地面より一七〇センチメートルも高いところにある。これをつくるのに土蔵一棟分の費用がかかったという井戸である。用水(下堰)の末流で千曲川への放流口であるこの地域は、千曲川が増水すると放流できなくなった悪水があふれる。ときには千曲の水が逆流してくる。地域の人びとは水が押しよせてくる前に、野だめや便所に棒を渡し、その上にむしろを敷き土をかけて汚水の流失を防いだ。しかしそれでも汚水や濁水が入って使用不能になる井戸が多かった。一度よごれると井戸替えをしなければ使えない。水見舞いには水を、ということばどおり飲み水にも困ることになった。この井戸はそんなときの救いの井戸だった。松代町西寺尾にも集落のもっとも高い位置、現在の公民館前に大きな井戸が最近まで残っていた(『千曲川』)。
水沢や岡の古い民家は、家をつくるとき床下の部分の土を四方に盛りあげ、間知石や玉石を交(ま)ぜて固める。その上に土台を築いて建てていた。このために家の床下は人が立って歩けるほどで長い束(つか)が床を支えていた。
この溢流(いつりゅう)(あふれ水)の苦しみから解放されたのは昭和五十六年(一九八一)に新田堰(しんでんせぎ)と宮堰(みやせぎ)に、平成八年(一九九六)に岡・神明堰に排水機場(はいすいきじょう)が設置されてからである。同じころ東岸にも排水機場が設置されている。